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Re:みんな引いてるだろうなあ

記事番号:694
投稿者名:たてにょん (http://www.sfc.keio.ac.jp/~lapis/every/)
投稿日時:1999/06/02(水) 04:28:45
引用記事:679
ども、たてにょんです。

〉と思いつつ、また書く(笑)。

引いてるかなあ(^^;この話題への皆様の参戦、お待ちしております。
テーマは「岡野作品をどこまで深く読みこんでいくことができるか」
というのもありますが、どちらかというと「岡野作品をどんな他の分
野と結合させることができるか」のほうが近いかも。

〉まあ、読んでくれればそれで十分、1行でも
〉「あれ?」と思ってくれたらしめたもの、という下心で、やります。

同じく。

〉私は「たとえ話」を意識してつかいます。
〉ひとつひとつは適切でなくても、集まればなんとかなるだろう・・・
〉なってほしいな。

たとえ話で話題がずれることもあれば、一つのたとえ話が
本質を鮮烈に暴き出すこともあるし、大量にあればおぼろ
げながらも方向性が見えてくるかもしれないし・・・。

〉サントリーホールのバックステージ席によくすわります。
〉オーケストラの後ろ、パイプオルガンの下なのですが、
〉すごい演奏だと、2000人の聴き手がグッと集中していくさまが
〉手に取るように見えます。
〉そんなとき、正面に見える聴衆の顔をみながら、たまに考えます。
〉
〉「この人たちのおもい(だしていること)は、どんなだろう」
〉もし、皆の顔がブラウン管だったら・・・
〉2000のブラウン管に映る、2000の違った光景。
〉
〉(この場所、この瞬間限りということを考えると
〉ゾクッとするのですが、それはおいといて)
〉ぜんぶ違う光景ですが、ひとつの「宇宙」にたいして
〉それぞれが抱いたイメージ(答え)、という意味では同じです。
〉この2000の光景をひとつづつ見ていく。
〉あるいは違う作品、違う演奏を聴いて
〉自分のなかに眠っている光景を掘り起こす。
〉それを続けていれば、あるいは作曲家に近づけるのではないか。
〉(光景、ってえ言葉は、記憶、という意味でつかってます)
〉
〉作曲家はまた別のやりかたで、何かに近づこうとしています。

バラバラの想いを、点(作品)が集約していくこと。
バラバラの作品を、点(意識)が集約していくこと。

点と点は相互に係わり合いながら、何かを示していきます。
作者の意図をそれより優位に置くことが出来るならば、示し
うるものの先は、作者かもしれないし、もしかしたら、作者
を作品が離れたとしたら、もっと違う可能性をはらんでしま
うかもしれない。

どこまでが意図か分からないし、スゴイ作品はむしろ、意図
していなかったこと全てが一本の線上に浮き上がってくるよ
うなものかもしれない。岡野作品は、どこまでが意図されて
るのか分からないくらい完璧な作品があったりして、怖いで
す。時折、全部見透かされてるんじゃないかと、思ったりし
て・・・。

ああ、今日は考えがまとまらないなあ・・・。

〉岡野さんは、いくつもの作品を使い、手をかえ品をかえしつこく追求する、
〉という姿勢ではなくなりましたね。
〉他者とのかかわわりに目を向けはじめると、必然的にそうなるでしょう。
〉(考えたいことが多すぎる)

ある意味、今だに一つのテーマを追っていることは確かなのですが、その
方向性が変わった、ということなんでしょうか。他者とのかかわりを描く
ようになったからなんでしょうか、そこに関してはまだ色々考えることが
あるかなあ。「人形」を軸にして考えると、「少年宇宙」から、「ドリー
ムワークス」を経由して、「パペットマスター」に至っている道は、何か
こう、また違う何かが介在しているような・・・。

ある意味、「他人」が存在していないんですよね。それが自然になってい
る。少年宇宙においてジャン・ジャリーが持っていた現実と夢の軋みが、
以降の2作品には表面上見えなくなっていて、それが逆説的に軋みをもっ
とゆがんだカタチで保存してしまっているというか。僕は絶対にそれは意
図的なものだと思っていますが、結果的な作品をどう解釈すべきかは、今
だに迷います。

〉ただ、自分についてかんがえる、という方向に戻る目はあるとおもいます。
〉たとえば、
〉『宙の約束』では「いったい死んだらどうなるのか」という疑問を
〉人間と人間でないものとのあいだのできごと、として書いていましたが、
〉時間をおいてふたたび考え、
〉「死」は好むと好まざるとにかかわらず、実に近しい存在だということを実感すれば、
〉また方向がかわるかもしれません。以前の岡野史佳では、もちろんありませんが。

「死」は、難しいですね。

社会的には、現実そのものですからねえ。というか、社会自体が
死を前提に成立してきたと言えるし(冠婚葬祭共同体として成立
してきた人間の共同体において、現代において最後まで残ってい
るのが葬式共同体であることからも確か)、個人にとっての死は、
それこそ個人にとっての現実では無いからなあ。

岡野作品においては、「フレアマン博士の死」が、一つの気にな
る例だったように思います。

ドリーの死は、子供として回帰(代理)されていたし、「宙の約
束」は確かに超自然的なものとしての描写が中心だったし。(あ、
それでも、人間が人間に何を残すことが出来るのか、という意味
で「宙の約束」は、気になる作品だったかもしれない)

それに比べて、「フレアマン博士の死」は、そこからトイズヒル
の無時間性を導き出すことが出来たし、「永遠とそれを象徴する
ものとしての一瞬」が、死と生に対応していたし、ああなんとい
うか、やっぱりまだまだ探究しつくせない世界が色々眠っている
ような気がする。

ああ、やっぱり考えがまとまらない・・・。

#まあ、まとまらなくても書くことが重要かもしれないと思うの
#で、恥をしのんで出します。

顔を洗ってまた出直してきます。

それでは。


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