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タイトル:Re*2:「原罪」について(いいの。みんな引いても。)
投稿者 :kita
投稿日時:1999/09/19(日) 22:46:46
引用記事:827
前回は自分のことばかりだったので…
巡回ソフトをお使いの皆さんには、申し訳ないです。
〉本来、原罪とはキリスト教信者に言わせれば「人間が神様を裏切った行為(エデンの園での堕落)」
〉を指すので、原罪清算の道は神様との信頼関係を回復することが「救われる」という内容になる
〉はずです。(わたしはキリスト教信者じゃあないので、よく分かりませんが)
〉「人との関わりで救われる」ようなら、世の中とっくに救われてるんじゃないか? とおもえなく
〉ないけど・・・ なんか、「オリジナルシン」は根本的にピントがずれてるような気がします。
〉
〉原罪をテーマに書く場合、そのあたりのこと(宗教的背景や聖書の教義など)を意識してないと
〉読む人が読むと「なんだこれ?」っていう的外れなお話になってしまうんじゃあないかな?
〉#すいません、ちらっとしか読んだことない人間がでしゃばってしまって(^^;;
いやいや、りるりるさんは「考えてみる」ことにトライされているのですから、
でしゃばる(とは思ってないけど)のはやってみるほうがいいです(できれば作者に対しても、ね)
さて、広辞苑では「アダムが神命に背いて犯した人類最初の罪。人間は皆アダムの子孫として
生まれながらに原罪を負うものと考えられる。宿罪。とあります。
それはさておき。
私は高校生の頃から、そして今でも、人類や人間や、人すら信用していません。
でも、最近、人の「心」だけは信じたい、と思いはじめました。
100年前の言葉、数百年前の絵に込められた情念は、今でも通用するからです。
「あのとき、なぜあの一言がいえなかったのだろう」という後悔は今でも残っています。
一言で親しい友達を失ったこともあります。
やってしまったことは仕方ない。でも、二度と同じ思いはしたくない。
逆に、一つの文章で視界が開け、気持ちが晴れやかになったこともあります。
たとえそれが不特定多数に向けられたものでも、発言の本意が別のところにあっても、
苦しければ苦しいほど、その言葉にこめられた(と自分が錯覚した)気持ちは、
かけがえのないものとして残ります。
私は、最後には人でないものの世界に帰っていきますし、それに憧れているのですが、
他方、「自分の心は他の人の心によってしか安らぎを得られない」ことも感じています。
私は、「原罪」=知恵、とはとどのつまり「言葉」だと思っています。
何でも仮定できて、考えを固着できる言葉。細やかな感情を「伝えてしまう」言葉。
言葉/知恵を持ったがための後悔は…それは各々が墓まで持っていくしかない。
(つまり、この世では、神による救いはないのです…全く、彼はいつも、ただ見ているだけなんだ)
でも、それを使ってしか、できないこともある。離れた人に心を伝える手段は、言葉しかないから。
「人間一人一人の役目は、世界が無意味でないことを証してみせることにある」
世の中は変えられずとも、自分に関わりを持った一人か二人の人間を力づけることができる。
この世で神による救いはないことを知っているからこそ、生まれる意志。
そしてまた、ある人からもらった「気持ち」は、自分なりのやり方で、別の人に手渡すことができる。
(世の中どうもこういうものを順繰りに渡すようになっているらしい)
『地上の星座』は、そういう話だと思う。
…おっと、話がずれちまった(笑)。
普通は家庭を持ち、子供を育てることに自分と世界の存在理由を見出すのですが、私は両方とも
放棄したので、こういうことをつらつら考えてみるわけです。
解釈の幅が広いタイトルなので、こういう例をあげてみました。
では。
(おお、今回も自分のことばかりだぜ!)
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