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タイトル:Re:オカノフミカの特徴
投稿者 :たてにょん (http://www.sfc.keio.ac.jp/~lapis/every/)
投稿日時:1999/05/25(火) 03:48:37
引用記事:667
ども、たてにょんです。

kitaさんの発言にひかれて、ちょっと考えてみました。

〉  「演説でも物語でもなく、科学」

この言葉はすごく正しいように思えます。でも僕は、岡野先生は
どちらかというと「観察者(真なるものは対象に宿り、人はそれ
を記述するのみ、という姿勢)」的というよりも「構築者(真な
るものは、モデルとシミュレーションの繰り返しによって近似で
きるが、それはあくまで近似でしかありえない)」的と感じてま
す。正確に言えば、感じてました、かな。93、4年以降の岡野
作品は、日記に書きましたように、根底にある姿勢の変化が感じ
られるからです。

〉”人形をモノとは思えない”
〉はなはだ私事ですが、わたしは飛行機が機械に見えません。
〉松本零士のマンガでは、撃たれた飛行機は血を流しますが、
〉私はなぜ、それを自然なことと受け止められるのか?
〉知識を集めても結局傍証を積み上げるだけでした。
〉  <なぜ自分はそう感じてしまうのか>
〉という「不思議」を解き明かし、自分を「理解」するには
〉心のなかを探り続け、すこしづつ迫るしかないようです。
〉(その全貌は一生わからないんだろうけど)

岡野先生は、こういうとき、「人形をモノとは思えない世界」
を構築した上でシミュレーションをかけているような気がしま
す。というか、(真剣に作られた)ファンタジーというもの自
体が、モデル=シミュレーション的な視点を持っている、とい
うほうが正しいかなぁ。「なぜファンタジーが現実的でありう
るのか?」の答えは、僕にとってはここらへんにあるかな、と
思っています。

特に、少年宇宙は、そのものずばりです。「ライフゲイムの宇
宙(原題:THE RECURSIVE UNIVERSE)」(ウィリアム・パウン
ドストーン著・有澤誠訳・日本評論社)あたりが、この作品の
理論的な基盤に成り得ます。

私は、一つの空想物語が、(数学的に厳密な)理論的な基盤を
持ちうるという可能性に驚愕しました。ある意味、その驚きは
僕がいまサイトを運営している動機の(非常に大きな)一つで
す。

〉”イルカと泳ぐ”
〉彼らはまったく別の世界に生きています。
〉人間には彼らの世界は体験できません。推測するだけです。
〉でも。
〉言葉が通じない、人間には分からない世界にいる「はず」の彼らと
〉意志を交わす瞬間があります。
〉何者かからソロモンの指環が与えられた一瞬。
〉理性が支配する筈の世界に現れる、理性を超えた事象。
〉自分の内なる世界の不思議、
〉ふたつの世界の間にある不思議。

「通じてしまう」ということを内面化した作品が「瞳の中の
王国」でしょうね。私にはそう感じられる、という視点で一
貫してます。それに対して「君の海」では、より大きなもの
の存在が仮定されている。

推測可能性というのは、理論的な枠組みを人間が構築しうる
場合に与えられています。よって、この枠組みを維持してい
る以上、自我は常に世界の上部にあると言っていいでしょう。
これが、ある時期までの岡野作品の一貫したスタンスだとす
ると、ある時期以降の作品は、自我を超えるものとしての世
界を描く、というスタンスに移行してきたと見ることも可能
でしょう。

〉みずから進んでそれに近づくには?
〉岡野さんはその手段として「観察」を選んだ、と思います。
〉みえない指環に手を伸ばし、触れ、あらたな世界=宇宙をみるために。
〉自分のなかの不思議を解き明かす作業が「哲学」ならば、
〉『少年宇宙』シリーズは、哲学している、といえるでしょう。
〉最近は動物行動学のようなアプローチをしているように見えますが、
〉どちらにしろ、観察から考察へ、という手法は変わっていません。

たとえば、「君の海」は、「瞳の中」に比しても、「観察」で
成り立っているように思います。世界のミニチュアを作ること
をやめ(=ああ、それは「少年宇宙」においてフレアマン博士
が小宇宙を作る行為として直接的に描かれていたことであり、
と同時に「瞳の中」では水族館というメタファで示されていた
ことであります!)、世界(=つまり「君の海」における「海」
です)を描くことに比重を移したとも言えます。「ひとのつく
るうみ、と、宇宙、の等価性」の探究をやめ、世界の示すもの
を読み取ろうという姿勢へのシフト。

が、それが良かったかどうかは、まだなんとも言えません。

なぜなら、私たちには、どのような解釈も許されているからで
す(特に、制約を持たない物語においてはそう)。感じてしま
うことの、「感じてしまう」ことは既に、私たちの中にありま
す。私たちは、世界をただ自分の(根拠を持たない)直感を通
してのみ認識することができます。しかし、感じたものは常に、
感じたまま記述することは出来ません。感じたままを描こうと
すればするほど、それ自体が罠のようなものになってしまうわ
けです。わたしたちは、わたしたちの中に、制約力を持った構
造(たとえば、数学)を持たなければ、表現されたものの正し
さを語ることが出来ないのです。(そして、その制約自体がま
た一つの大きな世界を形作るし、宇宙になりうる、ということ
が、前出の「ライフゲイムの宇宙」に語られています)

だから、わたしたちは、自然が語りかけてくるものを、「ひと
のつくるうみは、宇宙になれるのか?」という問いを通してし
か、考えることが出来ないのかもしれません。

それゆえに、私は、「瞳の中」の1巻に、今だに、未完ではあ
りますがそれ故に魅力的な思考の断片を見出すことが出来ます。
それは今現在、放棄された断片かもしれませんが、進むべき道
を示しているのはむしろ、そこにあるのかもしれません。

もちろん、そうではないのかもしれません。僕は「そうではな
い可能性は何だったのか」を知るために、今の岡野作品を読ん
でいます。そして、それが最近、少しだけ「何だったのか」わ
かりつつあるような気がします(これも日記に書いたな)。

〉お目汚し、失礼しました。

なんか、こうやって他の人の考察を読ませてもらうという
のは、新鮮です(笑)いつも、どうせこんな事を考えてい
るのは自分だけだろーなーと思っていたので(^^;

んで、また今回も、舌足らずのぐちゃぐちゃのわけわかん
ない文章が出来あがってしまいました。でも、別に難しい
ことを言いたいわけじゃなくて、岡野作品の中に秘められ
た、とびっきりの鮮烈な視点を切り出したいだけなんです
よね。もちっと自分に筆力があれば、岡野作品を貫きとお
すものを描きだすことが出来るのかもしれないけど・・・。

といったところで、それでは。

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