【 フリートーク(なんでもあり) 】 |
fumica.com - communication space |
[前の記事] [次の記事] [ボード一覧] [記事一覧] [新しく投稿] [この記事に返答] [削除]
Re:ゴルドベルクを聴いてみる(悠治先生のお言葉)
記事番号:989
投稿者名:kita
投稿日時:2005/04/04(月) 00:36:21
引用記事:983
土曜日は用事を済ませ
日曜日は掃除に買い出し
毎週このくりかえし。ロシア民謡↓じゃあるまいし…
http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/isshukan.html
ともあれ、今週も11時をまわったところでやっと片づきました。ということで少々。
4月1日、御喜美江というアコーディオン奏者の演奏会に行ったら、高橋悠治がついてきました。
彼はしゃべるのが好きなのでこの日もトークの時間がありましたが、食えねぇジイサンだぜ(笑)。
内容は結構面白かったです。放談というか好き放題しゃべっていました。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
断片だけ書きます。
・コンサートというのは、プロモーターと楽譜出版社ともうひとつ(忘れました)が結託して
演奏家を搾取する仕組みだ。
(のっけから一発かましてくれました。この人のこれまでの行動は、この認識が根底にあっての
ものなのだろう)
・新しい音楽をやろうとすることは、生活を変える、ということ。
(…うーん、曲を書く人間やプレーヤーにとっては、そうかもしれない。聴き手にとっては、
時間内に=演奏終了までに彼らの意図にどこまで肉薄できるかという挑戦で、生活を変えるところ
まではいかないのだが)
・アコーディオンというのは新しい楽器だから、新しい音楽を進んで受け入ようという意識がある。
ピアノのように過去の音楽だけでコンサートが成立する楽器は、新しく書かれた曲を必要としない。
必然的にその演奏会、ひいてはプレーヤーの価値は「上手いか下手か」「ギャラが高いか安いか」
というモノサシで判定されるようになっていく。
(この考え方は面白い。いいところを突いていると思う。これが、彼がコンサート活動から離れた
理由のひとつなのだろう。)
(御喜美江が述べたことだが、アコーディオンという楽器は鍵盤式もあればタイプライターのような
ボタン式もあり、奏者がそれぞれ一番いいと思う楽器で演奏する。それが未完成というのなら
その通り、新しい楽器なのだろう)
(御喜美江が高橋に『でも、アコーディオンためのの曲は7,000を超えるのですが…』と水を向ける
と、センセイ、さっさと話題を変えました)
・CD『水牛のように』についてのコメント。4人のアコーディオン奏者の競作アルバムなのだが、
「これくらい違っていると、いいね」と一言。
http://www.suigyu.com/cd/sg007.html
(2年前に御喜が企画を持ちかけ、高橋は『反対しなかった』そうだ。ということは、いつもは何か
文句をつけるんだろうな)
(ということで、ぐるっとまわってゴルドベルクの解説に戻ってくる訳である)
21年目を迎える『東京の夏』音楽祭の一環として、7月25日築地の朝日ホールでシューベルトと
シューマンを弾くらしい。バッハのパルティータも一曲ある。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
『水牛のように』という曲自体は聴きづらかったです。かなり頭を使って補完してやらねばならない
音楽。でも『谷間へおりてゆく』はとっつきやすかった。コンサート概説↓
http://www.fujitv.co.jp/event/art-net/clsc_01concert/145.html
御喜美江のなにを聴きたかったかというと、バッハのフランス組曲。この曲想はアコーディオンと
いう楽器の特性にぴったりで、夢を見ているかのような心地になれます。
このリンクは適当にみつけたもの。(CDジャーナルとは懐かしい)
http://www.cdjournal.com/main/artist/disc.php?ano=900108&dno=1297060037
この記事に関する返答が, 990, 991 に続きます。
[前の記事] [次の記事] [ボード一覧] [記事一覧] [新しく投稿] [この記事に返答] [削除]