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タイトル:Re*2:今晩のラジオは、ブルックナーの第八交響曲だった。
投稿者 :kita
投稿日時:2004/07/11(日) 18:54:15
引用記事:904
〉7/9に大植英次/大阪フィルでこのブルックナーの第八交響曲(ハース版)を聴いてきたので。
〉今日は大阪フィルの創立者、先代音楽監督の朝比奈隆の96回目の生誕の日。
この日は3階LEE4で聴いてました。
直前に当日は朝比奈の誕生日と知って、過激ファンが玉子投げないかと心配(期待?)して
臨みましたが、そんなことはなかったですね。満員の聴衆“全員”が、オケに投ずる集中力。
これは東京ではあまりみられないことです。
女性にブルックナーは向かない、という偏見を持ってますが、両隣の女性は集中してました。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
レスつける前に、私の所感を書きます(スミマセン)。
伊丹で時間待ちしている間に書き留めたメモをベースにしています。
総括:朝比奈はオケの音色の中に生きている。
1.オーケストラとホール
音のブレンドが印象的だった。貧困な語彙ではブレンド、としか表現できない。
これは東京のオケでは瞬間にしか出ない、ASAHINAの音色だと思う。
録音では決して拾えない、ブルックナーにおけるパート間の絶妙の音量調整。
特に第1、第2楽章。
ワーグナーチューバはイマイチだったが、オケ全体の押し出しは十分迫力あり。
木管はもう少し表現の幅を持っていてもよいと思う。
アンサンブルは意外に(失礼)良かった。ホールが小さい分、音量に関係する技量に
神経を使う必要がないから、かもしれない。
(これは「多分」の世界なのだが、大フィルが朝比奈と演奏するときは、
自主的に指揮者を補って音楽を作る部分がかなりあったと思う)
東京でいい演奏ができなかった(少なくとも都響では)、という事実を思い起こすと、
オケの尽力に目が向く。晩年の朝比奈がアンサンブルをオケに委ねていたのは事実で、
それはすなわちコンマスがブルックナーに理解を示すかどうか、にかかっっていた。
それが都響では、ジャービスが亡くなってから山本がくるまでの間、できなかった。
このホール、このオケでこの曲を聴き、改めてそう思った。
しかし一年くらいのトレーニングでは、あそらく合奏能力は向上しない…
都響もそうだったので、来年はもっと表現力が豊かになると思う。
ホールはすごく(笑)小さい。東京文化会館並にデッドな残響。
しかしこの容積がブルックナー演奏には効果的だ。上に書いたように、ここなら
アンサンブルに集中できるかもしれない。
もしかして、ザ・シンフォニーホールはブルックナー専用ホールかもしれない(笑)。
天井が一部妙に高いところは、ゴシック教会のように音が天上から降ってくるように
設計したのかもしれない(そうなのかどうかは知らない)。
大フィルとホールは、セットになって初めて実力を発揮する。
他のホールでは魅力を出し切れない、と見受ける。
2.大植の指揮
物語性をもたせようとしていた。
物語といっても、イタリアオペラのような「その場の感興まずありき」ではなく、
「こう感じたら次はこう動くだろう」という、ある程度理屈に沿った音楽を
構成したかったようだ。
私自身は、そんなことをしなくてもブルックナーは成立する…
受け止めるものではなく、各々が己の心を探るのがこの作曲家に相対する方法だ、
と思っているので…アプローチ自体に共感はしない。
しかし指揮者が何を狙うのか、それを把握できれば、その差し出される料理を
心から楽しむことができる。
特に第三楽章、山場の徐々に大きくなるコラール、これは、
あまりいいたとえではないが、能楽で俯いていたシテが徐々におもてを上げる、
その感覚を、背中に「ぞくっ」と走るものを感じながら聴いた。
第四楽章は物語らずとも面白いのだが(笑)、大植としてはアクセル・ブレーキを
踏みたくなるのが人情。やってるやってる、と思いながら聴いていた。
3.その他もろもろ
終演後の喫茶コーナーでテイクアウトパンと称し、ロールパンを何個かひとまとめ
にして五百円で売っていたのが飛ぶようにはけていた。なんだったのだろう?
大植のポスターを五百円で売っていたのは分かるのだが…
クロークのお姉さんがやたら(無意味に)愛想がいいことといい、関西的だった。
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