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タイトル:『オリジナル・シン』最終話&ひとつ前(とりとめもなく)
投稿者 :おっ!
投稿日時:2001/07/24(火) 23:49:35
すこし真面目に書いてみました・・・が、長いだけですね、こりゃ(苦笑)。
この作品、最終マイナス一話まで、とっかかりがなくて読むのに難儀しましたが、
(ただのエンターテインメントとして読むつもりはなかった)
弥勒のエピソードが出てきた回から、キーワードが浮かびはじめました。
これが見つかれば、半分攻略したようなもので・・・
まだまだほんの一面を撫でただけですが、この作品、結構気に入っています。
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家族とはどのような集団だろう。
親子/夫婦の関係を続けていくために必要な努力を考えれば、
解消することが不可能な親子関係と、解消可能な婚姻関係を
同じ「家族」という言葉でくくることができるのだろうか?
はたして、子供がいない夫婦は「二名の家族」だと断言できるのか。
「家族」=「血族」と短絡させる気はないが、
家族とは親子関係を持つ集団、またはその一部だろう。
偏狭であるが、
家族=まず子供+そして子供に"付随"する人間、と見ることもできるだろう。
『オリジナル・シン』に、次の3点のモチーフを読み取ることができる。
・親の犯した罪(その結果、子が引き受けざるを得ない業)
・子の犯した罪(その子孫に、あらたに引き継がれることになる業)
・子が親となる、その繰り返しにより、彼ら一族は、いったいどこへ行くのか?
(後の世代から見れば…自分たちはいったいどこから来たのか?)
※罪と業とはどう違う、という点は保留。
どこから来てどこへ行くのか、が、「家族」(親子)という”チェーン”で繋がるとすれば、
そのつながりかたは2種類に分けられる。
・死ぬことで忘れ去られる、社会的・精神的なつながり(いずれ鎖の痕跡も消える)
・時が経過しても残る(だろう)遺伝的なつながり(どこへ行くのかは誰にもわからない)
社会的な”鎖”をつなげ、切り、どこへ向かうか決めるのは人間の意志だ。
今や遺伝子の”鎖”をいじることも可能だが、その先がどこへ向かうか、誰も知り得ない。
※”チェーン”=つながり、”鎖”=制約 というほどの意味。
作品中で家族(親子)関係に関する事例をいくつか挙げると、
(1)親子関係の確認:黒岩&勇日・遼河
遺伝的には残らない”チェーン”を再び繋ごうとする努力。
(2)禁忌を犯す代償として、家族関係をこちらから切断する:未織&遼河
だれかの子供であることを放棄することで、社会的・精神的な”チェーン”を切る。
健全性を維持するための圧力(禁忌)からは開放されるが、
子供に新たな業を負わせることになる。
だれにも言えない分、この業は深いが、遺伝的な”鎖”の行き着く先が見えないのは、
救いであり、希望だ。
(3)流産:リラ&勇日
作品中では最も一般的な家族関係の成立が、子供の死で確認される皮肉。
(4)最終章の前まで重要な登場人物だった片山黎
彼女は、人がどこから来てどこへいくのかを考える必要がなかったように思われる。
すなわち”チェーン”=家族も、家族を構成する愛情も必要としなかった。
(しかし、仮にも宗教者がこういう考え方でいいのか、という疑問は残る)
※ワーグナー『ニーベルングの指環』のハーゲンを連想するが、それはそれとして。
ストーリー展開を担う要素は近親婚・代理母・人工受精・流産だが、
父性を排除している(黒岩は未織の父親的機能も持つ・勇日は父性を発揮するに至らない)
点が作品の特徴として挙げられると思う。
挙げる挙げると挙げてみただけだが、岡野史佳の作品において、「家族」というモチーフは
本流になり傍流になり、表になり裏になり、連綿と流れ続けているように思われる。
もっとも、これは少女漫画一般の傾向かもしれないが・・・
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